感染の恐怖と失業の恐怖に苛まれて

 僕の朝の散歩コースは、岐阜市内の長良川河川敷道路なんですが、今朝もいろんな鳥がさえずってました。声だけで姿を見せてくれないウグイス。ソロでもピーチクパーチクと賑やかなヒバリ。小枝の先っぽで「一筆啓上仕り候」と泣いているホオジロ。鳥たちは元気です。それにくらべて、行き交う人たちは何か元気がない感じがします。誰もがコロナ感染者かもしれないと思うと、声もかけられないんでしょうね。僕も初めのうちは黙ってすれ違ってましたが、なんかやっぱり気持ち悪いので、「おはようございま〜す!」と明るく挨拶をするようにしています。考えてみれば、すれ違う人に挨拶するぐらいで感染するとは思えませんからね。

 でも、専門家の人たちのなかには、散歩するのにもマスクをするべきだとおっしゃる方もあるし、そうかと思えば外を歩くときにマスクは全く意味ないとおっしゃる方もあります。いったいどっちなの?

 テレビをつければ、コロナコロナ。街中のスピーカーも、コロナがどうのこうのと言っている。もういい加減にしてくれ!と叫びたくなるけど、一部に感染防止意識のない人たちがいて、そのために過剰な規制がひかれたりしているのかも知れません。どこの公園に行っても「バーベキュー禁止」の立て札が立っているのと同じことなのかも。バーベキュー自体は悪い行為でもないのに、一部にマナーの悪い市民がいて、ゴミも食材も放置して帰ってしまうという輩がいるからこういう規制になってしまうという構造と同じような気がします。

 そしてもうひとつ。岐阜のような小都市と東京や大阪のような大都市とを同じレベルで考えるのはいかがなものでしょうか。大都市だと、外出イコール人混みで、濃厚接触の危険がありますが、岐阜あたりでは駅ですら大した人混みではありません。それなのに、どうして子どもたちの遊び場である近所の公園を立ち入り禁止にしたり、金華山や百々ヶ峰の登山客の駐車場を閉鎖したり、全くもってその意味が分かりません。

 今や、多数の国民が、新型コロナの感染の恐怖と、経済的損失や失業の恐怖に苛まれています。僕もその一人です。いつになったら日常が取り戻せるのだろうか、本当に不安ですよね。4月7日には緊急事態宣言が出されました。外出自粛と、密閉、密集、密接の三密がそろう場には行かないというのが合言葉です。「人混みに行かない」「濃厚接触を避ける」を守らなくてはいけません。しかし、感染のリスクが高いとされる濃厚接触というのは、1メートル以内で、マスクなどの飛沫防止をしないで、15分以上話をすること、これが厚労省が出した基準です。そうした基準から考えても、近所の公園や登山のどこに感染の危険があるのか分かりません。もしそうであるのならば、スーパーマーケットも駅も封鎖し、電車やバスも走らせてはいけないんじゃないですか。そうした感染のリスクが低いところまで規制するようなことになれば、人々の心は疲弊し、人間不信に陥り、お互い罵り合うような嫌な世の中になってしまいます。これも恐ろしい話です。

 書店は休業要請の対象外で、休業しても協力金の申請はできません。当店も細々と営業を続けていますが、客足は途絶えています。このまま長引けば、生き延びるための選択をしなくてはいけなくなります。でも、生き甲斐を失いたくありません。過剰なコロナ対策に疑問は感じますが、早期の終息のためには、一人ひとりの感染防止意識が求められていることだけは確かです。

おおきな木 杉山三四郎